オペラ北斗の拳

ぼくのせいじゃねえ。

オクラホマ スタンピート

新語・流行語大賞が決まったという夜に記す。

にんげんは言葉を使うから、にんげんたりえた、と思ってとります。
しかし、言葉が言葉である以上、限界がばりばり、である。

言葉はローカルなものである。
地域の制限はもちろん、時代にも激しく制限されている。
だから二千数百年前の論語という知識が、共有できない。幾多の解説書が生まれる。

そもそも、言葉で何が共有できるのか? 多少言葉でメシ食ってた時期のあるぼくの生のなかで、これは根本的な疑問だ。
あんまり、皆さん疑問に思ってらっしゃらないようですが。

さて、ぼくは、「流行語」というものが嫌いなんです。ほぼ、口にすることはない。
同時に「業界用語」というものも嫌いである。

流行語も業界用語も、第一に「私は仲間ですよ!敵ではないですよ!」という合図として機能する。
そのぬめぬめ感が、ぼくはどうにも我慢ならない。
仲間ですよーなんて偽装してお互いサボるから、せかいがむちゃくちゃになっていく。

そのことについて説明はしない。説明しなきゃわかんないひとには、おそらく説明したとこでわかりゃしねえってこった。

話せばわかるなんて、トンデモですわ。
書き言葉よりうたのほうが伝達力があるかもしれない。
そこからはじめないと、ね。

さて、れいわ新選組から担がれたことで、ぼくは安冨さんというひとを知って、興味を持って安冨の本を読むようになった。
ひとにであった。

安冨さんが拾いあげる孔子というひとはとても、面白い。
孔子、すっげえね! って思う思う!

時にアクロバチック、時に探偵しつつ本書で炙りだされる孔子の言葉はことごとく、ぼくのあやふやなイメージを裏切る。
この感覚が面白い。

本書の中核は「学習過程」と「フィードバック」という、現代人にとっては冒険に等しい態度だと、受け取った。

柔らかく、在る。恥じる。そして「仁」。これが今どれだけ難しいだろう。

転向ということを考える。
己の主張を曲げないことが立派、みたいな考え方今も生き残ってる。ばりばり。
だから宮本顕治が戦後共産党のリーダーになれたんじゃないかと、ぼくは思ってるんだけどね。
転向、全然かまわねえじゃんねー! 何故なら、ひとは学ぶからだ。そして、常に状況は変わってゆくからだ。
固まってるヒマはねえよ。非転向を貫きゃ偉いと信じてなはるひとには「あ、そう?」としか、言えないんだよねー!

例えば「忠」とか「仁」とかいうものがいかに時代に転がされ、イメージにがんじならめになっているのか。
我々は語源も含めて、そもそものスタートから考えなければなんにもならないんじゃ、ねえかなというキモチが応援して頂けた。

ひととちゃんとすんのは、とても面倒だな。ひとは何を考えつくのかわかりゃしねえからな。
その上「見たいものしか目に入らないし、聞きたいものしか聞こえない」。
面倒だけど、しかたねぇな。散々失敗してきた。この先も失敗すんだろうな。
でも、だんだん更新してけると思う。
計算するより解放するこった。とらわれを見破ることだ。

安冨さんが書いていることの主題の一つが、「魂の脱植民地化」ということ。それには論語が多くのことを教えてくれる。他の本も。まだ見ぬ映画やCDや絵ぇも!

言葉で何かが、ちゃんと共有できるなんて、思わないんだけど、書くことはやめられそうにない。
何故なら「でも、やるんだよ!」としか言いようがない。

最後に本書に引用されてたガンジーの言葉
「理想的な非暴力国家は秩序ある無政府状態になるだろう」

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